その後、マイヤーは失踪した。
セミナールームから出てきた人物が、まさか人類最高クラスの頭脳の保有者であろうとは、誰も気付かなかったからだ。
たった一夜で、マイヤーの姿は老人に変わっていた。
頭髪は全て白銀に変わっていたという。
ぶつぶつと数式を口ずさみ、時折、激しく頭を掻きむしりながら、マイヤーは何処とも知れず消えた。
セミナールームには、ロナルドが一人、残っていた。
中空を見据え、やはり、ぶつぶつと何かの数字を口にしていた。
2, 3, 5, 7, 11, 13 ・・・Prime Numer、それは素数列だった。
・・・ 34949, 34961, 34963, 34981, 35023 ・・・
正確に素数列を刻み続けるロナルドは、やはり驚くべき Mathematician だったのだ。
彼だからこそ、受け取ることができたのだろう。
人類に贈られた、最高のプレゼントを。
病院のベッドの上で、彼は、夢を見ていた。
人類が受け止めることのできる、最高の夢を。
夜が明けた。
私たちがかき集めた雪だるまは、全部、溶けて消えちゃった。
何とか半分くらいは市場に放り込んでみたけれど、荒れ狂う市場には“ゆきのつぶて”。
結局のところ、市場を安定させたのは、参加していたみんなの意志と努力だったんだ。
でも、そんなことは、どうでもいい。
GとAは、私たちの理解を超えたところで戦っていた。
何が起こったのかは、わからない。
よくわからないけど、2人はとても満足そうだった。
作戦開始から14時間後。
睡魔と、疲労と、満足感がみんなに行き渡りかけた頃、最後の事件が起こった。
空気が、臭う。
なんか焦げ臭い。
ひょっとして、火事!
しまった、バーチャルな世界に気を取られていて、物理的な世界のことをすっかり忘れてた。
“彼ら”は、物理的な世界から仕掛けてきたんだ!
マンションの階下から、どす黒い煙が、ものすごい勢いで吐き出されてくる。
煙はあっという間に建物の内部を伝って、私たちの部屋に押し寄せた。
警報は、火災報知器は、切れていたの?
それとも、誰かが切ったの?!
「咲ちゃん、シレン、シーレン!」
「リン、リン、どこだ、咲!」
煙が目にしみる、見えない、息が、熱い、苦しい、逃げなくちゃ、どこへ、シレン、咲、みんな、どこ、逃げなくちゃ!
足がガクガク震えた。
入り口の扉は、もう真っ赤だ。
手が触れた、シレンの、そして咲ちゃんの。
全力で、しがみつく。
士錬が何か大声で叫んでいる。
叫んでいるのに、何も聞こえない。
死。
恐怖が全身にのしかかる。
イヤだ、士錬、咲、死ぬのはイヤ! 死ぬのはイヤ!!
私の中に残っていた、3回目の魔法、最後の魔法が発動した。
どこだろう、ここは。
いったい、私は、どこにいるんだろう。
きれい。
とても、きれいなところ。
シレン、そこにいるの?
咲、そこにいるの?
だいじょうぶだよ、すぐ近くにいるってこと、感じるよ。
G、そこにいるの?
Gの意識が流れ込んでくる。
そう、ここは、Gの夢の中だ。
Gは、わたしたちに、語りかけてきた。
リン、ありがとう。
もうこの世とはお別れだ。
リン、ありがとう。
楽しかったよ。
シレンに、会うことができた。
Aにも、会うことができた。
そして君に、会うことができた。
君は、ステファニーに似ている。
女ってやつは、最後まで我が儘で、無理解で、感情で動く生き物だ。
でも、楽しかったよ、我がマスター。
私が生きているうちに味わえなかった、本当の楽しさを、初めて感じることができた。
ありがとう。
もう、ここには戻ってこない。
お別れだ。
最後に、私の見てきた夢を、君たちに託そう。
Gの夢。
それは、天才を狂気に追い込む地獄。
そして、人類を憧れに駆り立てる、無上の天国だった。
漆黒の中に、一筋の光明が見えた。
光は一筋の線となって、単純な鏡面対称を形作った。
鏡面はどこまでも、どこまでも広がり、交差し、合い重なって、プラトンの多面体を構成した。
2,4,6,8,20。
空間を埋め尽くす鏡の部屋。
お互いがお互いを映し出し、無限の中に、無限の空間を作り出してゆく。
やがて、空間は次元を上げ、虚数を取り込み、巨大な構造体を形作った。
終わることのない、果てしない、構造体。
1つの構造の中に、無数の構造を内包し、その各々の構造の中に、さらなる無数の構造を内包し、
その外側も、無数の構造に連なり、連なった無数の構造が、さらに大きな構造へと連なってゆく。
そうして、宇宙が出来ている。
世界は、数の結晶と対称性が織り成す、巨大な構造体だったのだ。
数の結晶は、その一粒一粒が光輝き、どこまでも純粋に透き通る。
宇宙を見れば、宇宙は透明に澄み渡り、
大地を見れば、大地は悠久の時を携え、
星を見れば、星の大きさに心打たれ、
原子を見れば、原子の精巧さに心打たれる。
かくも美しく世界は在るのに、そこに住む、人間だけが醜い。
かくも美しく世界は調和するのに、なぜ人の有様だけが醜いのか。
人は、気付いているのか。
世界が、煌めく数の結晶から成り立っていることに、気付いているのか。
己が住む世界が、限りない調和の上に成り立っていることに、気付いているのか。
なぜ人は、矛盾を溺愛するのか。
わからない。
世界の姿を垣間見た私にとって、それだけが、わからない。
Gの夢。
それは、数の結晶で出来ていた。
最後に、Gは、私だけに語りかけてきた。
・・・リン、シレンを頼む。
それが最後の魔法。
私の魔力は、そこで失われた。
永遠に。
目を覚ますと、私は病院のベッドの上にいた。
生きていた。
Gは、いなくなった。