Gの前世、それは、憎悪と後悔に満ちた一生だった。
Gが生を受けたのは、まだナポレオンの栄光が輝いていた時代だった。
パリ郊外の、静かなたたずまいの町、ブール・ラ・レーヌ。
そこが、Gの故郷だ。
町長であり、詩人でもあった、尊敬すべき父。
慈愛と古典文学の教養に溢れる母。
そして姉と、やがて、弟が生まれた。
Gは、厳粛ながらも笑いの絶えない家庭に、幸せな幼年時代を送った。
ナポレオンの失墜と王政復古は、フランス全土を歴史の激流に飲み込んだ。
Gもまた、この激流へと飲み込まれていった。
12歳になって、Gは初めて親元を離れ、ルイ・ル・グラン中学校へと進んだ。
しかし、リベラルな気風の中に育ったGにとって、保守的な学校生活は耐え難いものだった。
同様の思いを抱いていたGの級友たちは、反乱を企て、放校を命じられた。
Gの反権力的な態度、共和主義に対する情熱は、このときに培われたのである。
学業不振のかどで、Gは留年を言い渡される。
翌年、およそ学業に魅力を感じていなかったGは、初めて数学に出合い、覚醒する。
ルジャンドルの「幾何学原論」。
幾何学の体系が、壮大なギリシャ建築となって、Gの眼前に現れた。
通常なら2年かけて学ぶ数学書を、Gは貪るように、2日で我がものとした。
ラグランジュの「数字方程式の解法」を8日で読み終えたとき、
Gは代数学が未完成に置かれていることを感じ取った。
15歳のGの頭脳の中で、代数学の再構成が始まった。
昼となく、夜となく。
やがてそれは、壮大な建築物となって、Gの頭脳の中に形作られていった。
「彼の才能ははるかに十人並み以上であると窺知する。
しかし、現在までのところは、教場において怠惰なることはなはだしい。」
「独創的たるを旨とし、その才能も非凡ではあるが、その才能を修辞学級で行使していない。
学業に関しては絶対に何事をもしない。数学に対する情熱の虜となっている。」
「知力とその進歩、顕著なり。されど秩序的なる態度、充分ならず。」
教師の間での、Gの評判は芳しくなかった。
そのころ、Aは母国を離れ、パリに留学していた。
もしAが滞在期間を延ばしていれば、2人は出会っていたかもしれない。
そうなれば、歴史は変わっていたのかもしれない。
しかし、運命は2人を引き合わせはしなかった。
2人は生涯、実際に出会うことはなかったのである。
17歳となったGの頭脳の中には、すでに新しい代数学の体系が完成していた。
この年、Gは名門レコール・ポリテクニックを受験する。
しかし、そこでの口頭試問はGにとってあまりにも馬鹿げたものだった。
反抗的な態度も手伝って、Gは受験に失敗し、もう1年ルイ・ル・グランに留まる。
そこで、生涯唯一の理解者であったリシャール先生と出会う。
リシャールは、Gを生徒としてではなく、同等の友人か、それ以上の人間としてGに接した。
彼は心の底から数学を愛した、熱心な教育家であった。
Gは新しい代数学の体系を論文にまとめ、フランス学士院に提出する。
論文は第一人者であるコーシーの元に送り届けられたらしいのだが、そのまま何処とも知れず消えてしまう。
Gは、自分が数学者としての名声を勝ち得ることを夢見ていた。
しかし、学士院からの返事はいつまで待っても来なかった。
その年、敬愛していた父が自殺した。
王党派の陰湿な陰謀によるものだった。
Gの父の名を語った、野卑で下品な詩作が街角に流れた。
潔癖な父は、苦悩に耐えられなかったのだ。
父の葬儀の日、Gの憎悪は頂点に達した。
「人殺し! 人殺しめ!」
誰からともなく、父を慕っていた町民たちが、司祭に向かって石を投げつけた。
「やめて! やめて下さい!」
必死に止めに入ったのは、Gの母だった。
流血、叫び、憎悪。
Gは心に深い傷を負った。
ルイ・ル・グランに戻ったGに、リシャール先生は、ある論文を紹介した。
「代数的に解きうる特殊の方程式類について」
それは、Aが死の床に伏す1年前に書いたものだった。
Aは既に他界していた。
Aは貧困と結核に倒れ、26歳にして世を去っていたのだ。
Aもまた、フランス学士院に論文を提出していた。
既に病床にあったAは、命を削って最後の論文を書き上げる。
「ある種の超越関数の一般的性質の証明」
後にそれは、"金鉄よりも久しきに堪ゆる記念碑"(Monumentum aere perennius)と讃えられ、
数学進歩の頂点と言われるほどの偉業とされる。
しかし、生きているうちにAがその賞賛を浴びることはなかった。
Aの論文は、Gの論文と同じように、学士院のどこかに放置されたままになっていたからである。
「Aを殺したのと同じ力が、コーシー氏の心をも毒してしまい、
コーシー氏は他人に同情をもたなくなり、他の人間に対する関心を失ってしまったんです。
・・・ぼくが愛していた父を殺したのもその力です。
・・・この力とこそ、ぼくは闘わなければならないでしょう。
ぼくは数学をやることによって、その闘いから逃れようとしたんです。
しかし、この力はぼくの生活を侵略してしまって、逃がしはしないぞ、と言うんです。」
リシャール先生が止めるのも聞かず、Gは共和主義に傾倒していった。
数学の学内試験でGは一等賞を得たものの、学外対抗試験での結果は五等賞に終わった。
Gの答案は簡潔に過ぎ、ていねいな馬鹿正直さに欠けていたのだ。
この年、Gはレコール・ポリテクニックを再び受験する。
しかし、そこでの試問は相変わらずGにとって、下らない、馬鹿げたものに思われた。
「君には明瞭かもしれないが、私には明瞭ではないよ。
数式を書いてみたまえ。でないとこれで問答を打ち切った方がいいかも知れん。」
「それは貴方には明白なことじゃありませんか?」
「明白じゃないとしてもらいたいですな。
説明して下さるようにお願いしている、と仮定してもらいましょう。
また申し上げとくが、君がそのつまらん事がらさえ説明できんとすれば、
この試験には通らないものと仮定してもらいましょう。」
Gは、手近にあった黒板消しを試験官の顔めがけて投げつけた。
そして、後をも見ずに部屋を立ち去った。
その後、Gはレコール・プレパラトワールに進学するも、政治運動に身を投じ、放校のうめきに合う。
この間、パリでは7月革命が勃発する。
Gは国民護衛砲兵隊に入隊するのだが、砲兵隊は時のフランス国王ルイ・フィリップにより解散させられる。
Gは再度論文を書き直し、学士院に送っている。
しかし、このときの幹事であったフーリエが他界し、受け取られたはずの論文は再びどこかに失われた。
あるとき、Gは書店の一角を借りて、代数学の講義を行った。
聞きに来たのは野次馬と、友人の共和主義者たち。
数学の話が目当てだった者は、ほんのわずかだった。
講義には約40名が集まったが、次の週は10名となり、翌週は4名。
それがGの最後の講義となった。
その一方で、Gは血気盛んな共和主義の同士たちに、演説をぶつことがあった。
Gの過激な物言いに、聴衆は狂喜した。
内心、Gは複雑な気持ちだった。
そんな思いに関わりなく、Gは勤王派から危険人物として扱われるようになった。
「方程式が冪根によって解かれる諸条件について」
Gは、3回目の論文の書き直しを学士院に送った。
共和党の友人の、強い勧めによるものだった。
解散を命ぜられた国民護衛砲兵隊の、旧隊員19名が告発された。
その中には、Gも混じっていた。
告発の理由は、民衆に大砲を譲り渡し、革命を触発させている、といったもの。
ほとんど言いがかりであった。
19名は民衆に見守られる中、無罪を勝ち得た。
無罪放免を勝ち得たその晩の祝賀会は、酒も回り、いきおい過激なものとなった。
「ルイ・フィリップのために乾杯!」
左手に酒杯を握り、右手に短剣をかざして、Gは叫んだ。
それは、フランス国王への死刑宣言であった。
危険人物であったGは捕らえられ、独房送りとなる。
弁護人の計らいで、Gは問題の発言の後に「もし彼裏切りせれば」の発言を付け加え、無罪となった。
革命記念日に、Gは砲兵隊の制服を着て行進に加わった。
小銃、短銃、短剣など、武器保有のかどで逮捕。
今度こそ有罪を宣告された。
留置先は、サント・ペラジー監獄。
監獄で無為な日々を過ごすGは、徐々に健康を害していった。
7月のある日、突如、何の前触れもなく、一発の銃弾がGを襲った。
幸い弾丸はGには命中せず、同室の囚人をかすめて壁に穴を開けた。
誰が、何のために?
その疑問が晴れることなく、Gはしばしの間、土牢に監禁された。
この事件は、弱りかけていたGの精神に、さらなる疑念の輪を広げた。
二年以上も待ちわびた、学士院からの手紙が届いた。
手紙にはこう記されていた。
「同氏の所論は十分明晰であるとは言い難く、
またその厳密性を判断しうるほど十分に敷衍されているとも認めがたい。
当論文が何を意図しているか、吾人にはそれさえ了解し得ないのである。」
突き返された論文には、審査に当たったポアソンの走り書きが残されていた。
「このレンマの証明不十分なり。
しかし、ラグランジュの論文第百号、ベルリン、1755年によれば、これは正しい。」
Gは手紙をバラバラに引きちぎって、捨てた。
6ヶ月の禁固の後、身も心も疲れ果てたGは、療養所へと移される。
そこで、Gは運命の女性と出会う。
ステファニー。
Gは、数学と革命に賭けていた全ての情熱を、この一人の女性に注ぐ。
しかし、その情熱は裏切られた。
ステファニーには、熱狂的な愛国者で共和主義者の恋敵がいたのだ。
名誉を傷つけられたと思い込んだ恋敵は激怒し、Gに決闘を申し込む。
決闘の前夜、Gはその生涯の全てを手紙に書き残す。
Gが到達した境地、新たなる代数学の地平、そして、数学の未来への道標。
決闘、Gは銃弾に倒れる。
右腹を撃ち抜かれ、血まみれとなったGを病院に担ぎ込んだのは、通りがかった名もない一人の農夫だった。
かけつけた弟に対して、一瞬だけ、Gは意識を取り戻す。
Gは弟に、最後の手紙のことを告げると、静かに息をひきとった。
20年と7ヶ月の生涯。
数学に触れてから、わずか5年の命だった。
Gがどこに埋葬されたのか、今となっては、誰も知る者はいない。
Gの業績が世に認められたのは、死後14年を経てからのことである。
どこをどのようにして伝わったのだろうか。
あるいは、Gの弟や友人の献身的な努力の結果だったのかもしれない。
数学者であり、物理学者でもあったリューヴィルは、Gの業績を最初に正しく評価した一人だった。
さらに死後40年を経て、Gの業績はジョルダンの著書によって、広く数学界に知られることになる。
ジョルダンは、その著書の中で「本書はGの諸論文の解説に過ぎない」と記している。
20世紀に入って、Gの思想は科学者たちに浸透し、大きな影響を与え続けた。
数学のみならず、物理学、応用科学の幅広い分野を横断して、Gの思想は1つの巨大な潮流となった。
その潮流は、21世紀の今なお続いている。